第8回 コシヒカリと石墨慶一郎博士

2025/11/10

 長い間、日本のうるち米作付面積のトップを走り続ける(2020年産で全国の3分の1の作付量)「コシヒカリ」は、敗戦後すぐに再開された農林省の育種事業で育てられた米で「越南17号」の系統名を持つ。その育成に携わったのが福井農事改良実験所(後の福井県農業試験場)の石墨博士と岡田さんの二人。「越南17号」は1953年から20府県で適応性試験が行われたがほとんどの所で倒れやすい、いもち病に弱い、未熟粒が多い、収量が少ないなどの理由で奨励品種への採用が見送られる。育成地の福井県でも不採用だったが、熟したときの色や米質の良さに注目した両氏は試験栽培を続け、2年後に新潟県と千葉県で奨励品種に採用される。この米はかつての二県の呼び名「越の国」に「光輝く米」という願いを込めて「コシヒカリ」と命名され、新潟県長岡市に「コシヒカリ記念碑」、福井市には「コシヒカリ育成の地」の碑が建てられている。

 石墨博士との出会いから、オレンジコープと氏の属する丸岡町農協が産直契約を結ぶまでに多くの時間は必要なかった。博士や農協担当者とオレンジコープの組合員は毎年のように丸岡町と泉州を交互に訪れ、宿泊先では育種の苦労話などを直接石墨博士の口から聞く機会を重ねていった。帰りには現存する12天守の一つで重要文化財に指定されている丸岡城のはしご段を上り下りするのがみんなの楽しみだったことは言うまでもない。

 1956年コシヒカリは晴れて農林登録されて「農林100号」の番号がつき、その後に育成者の代表として石墨博士は日本育種学会賞や農林大臣賞の栄誉に輝くことになる。

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