第1回 オレンジコープの前身 緑ヶ丘生協誕生までのあゆみ①

2025/9/22

現在の南海電鉄多奈川線・深日港駅

 第二次世界大戦の終結から4年半が経過した1950年の春、大阪府の最南端、 泉南の地で小さな生活協同組合が産声をあげた。 泉南生協 (オレンジコープ) の前身 ・ 緑ケ丘生協のスタートだ。初の社会党政権となった片山内閣の下で1948年に 「消費生活協同組合法」 が成立 ・ 施行されていたものの、 当時の人々にとって「生協」 はまだ馴染みのない言葉。 なぜこの地でこんなことが実現したのだろうか。

 戦時中、 現在の泉南郡岬町 (当時は深日町と多奈川村) の海岸には川崎重工業の泉州工場があり、 潜水艦建造の専門工場として稼働していた。 従業員数は約15000人、 今の岬町役場の南一帯を切り拓いた地には緑ヶ丘住宅と呼ばれる小さな社員用社宅が軒を並べていた。 社宅は東と西に分かれており、 西地区は 「社員さん」 と呼ばれた管理職用で各家々に風呂があったが、 「職工さん」用の東地区には風呂が無く、 その代わりとして会社が共同浴場を運営していた。

 敗戦後、 軍需工場には次々と操業停止命令が下され、 川崎の工場も漁船製造などに転じて命脈を保っていたが、 やがて休眠状態になる。 そして1949年にとうとう工場閉鎖が決まり、 幹部社員は神戸へ引き上げていくことに ・ ・ ・ 。

 困ったのは行き先の定まらない職工たち。 職だけでなく住む場所まで奪われてしまう。 明日をも知れない不安な生活の中で労働組合関係者を中心に会社との交渉が始まった。 緑ヶ丘社宅の払い下げや退職金など多岐にわたるテーマの話し合いを重ねる中で浮上したのが 「工場が閉鎖されたら風呂はどうなるのか?」 という意見だった。

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