第2回 オレンジコープの前身 緑ヶ丘生協誕生までのあゆみ②

2025/9/29

 戦時中の岬町はまさしく川崎重工業の町。海岸の潜水艦工場に加えて、15000人の従業員が住む緑ヶ丘という呼び名の社宅が並ぶ地域だった。そして、現在の深日港駅周辺には各種の厚生施設や病院があり、その東には社員たちが利用する共同浴場があった。当時の緑ヶ丘地区は1丁会から5丁会の町内会で構成されており、今でも古くからの住民は 「みどり〇丁会」 という呼び方をする。

 工場閉鎖にともなう川崎重工との交渉の席で会社は、「退職金はだせない」「希望する者は神戸の本社で働いてもよい」「退職する者も家賃を納めれば社宅に住み続けることを認める」の3点を提示する。そして、共同浴場の設備と土地の譲渡代金は営業権を含めて60万円というものだった。

 浴場を買い取るには多額の資金が要るが、どこにもそんな蓄えはない。何度も寄合を重ねる中でみんなで資金を出し合って「生協」を創り、風呂を買い取って自分たちで運営したらどうだろうかという意見がでる。発案者は和歌山日日新聞の記者をしていた安宿吉勝さん。安宿さんは社員ではなかったが、奥さんが川崎重工に勤めていた縁で緑ヶ丘の社宅に住んでおり、会合にもよく顔をだしていた。「生協とはどんなものか?」実際に見に行こうということになって視察の候補に選ばれたのは、労働組合員の高田松次郎、中島很と安宿吉勝さん。生協運動発祥の地の神戸消費組合と灘購買組合(合併して現在はコープこうべ)を訪れた3人は、規模的にも機能的にも想像をはるかに超えた組織形態に感動すると共に、日本の協同組合運動の父と呼ばれた賀川豊彦との面会も叶い、意気揚々と緑ヶ丘に引き揚げてきた。

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