第4回 緑ヶ丘生協 事業の認可区域を拡大 岬町生協へ名称を変更 

2025/10/13

 創業から10年間の経営は順調に推移し、設立時に深日農協から借りた金員も無事に完済することができた。ところが、次第に内風呂を備えた家庭が増えて利用者が減り始めるという暗雲がただよい始めた1962年3月、浴場は火災に見舞われる。風呂の焚き口の火が燃え移って建物を全焼、浴槽まで燃えるほどの大火事だった。この時、役員たちは大阪府生協連合会を訪ねて相談にのってもらい、再建に必要な資金を借りて年末には再開にこぎ着けた。

写真 緑ヶ丘生協の会員証

 その後、地域外の住民にも加入を呼びかけようと1964年に町全体に事業の認可区域を拡大し、岬町生活協同組合に名称変更。理事会は少しでも収入を増やそうと浴場の東側に貸店舗用のプレハブを建てることを決める。これは駅前だったことも幸いして借り手がすぐ見つかり人気の場所になる。喫茶店、化粧品屋、時計屋などが入居してくれた。ほっとしたのも束の間、名前と区域の変更からわずか1年半後に今度は美容室を火事で失ってしまう。幸いにも浴場は無事だったが1970年代に入ると岬町は大阪や和歌山の通勤圏に組み入れられるようになり、サラリーマン世帯を中心とした新住民が流入してくる。いわゆる核家族住民だ。どんなに人口が増えても自宅に風呂があれば生協との接点は生じない。風呂を利用する組合員の減少が止まらないことに加えて創業時からの事業を支えたメンバーたちの高齢化。岬町生協は二重の苦難に直面することになる。

 そして迎えた1974年の通常総会。理事会は浴場事業からの撤退と地域政策強化の方針を固め、購買事業の確立に向けて新たなスタートを切ることを決議する。

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